昭和二十八年(一九五三)町村合併促進法が公布施行されると、川田村・保科村・綿内村・井上村の上高井郡南部四ヵ村の合併も話題になったが、具体的動きには至らなかった。同三十年に井上村が須坂市に合併すると、翌三十一年に三ヵ村合併協議会が綿内村の呼びかけで発足した。しかし、合併条件について各村の意見が一致せず、協議会も決裂の状態となった。その後、国や県の三ヵ村合併の度重なる行政指導があって、同三十三年十二月、川田・綿内の両村議会で三ヵ村合併の決議がおこなわれた。しかし、保科村では議会決議ができなかった。そのため翌三十四年二月保科村は合併に対する住民投票を実施し、五九パーセントの合併賛成票を得た。この結果、同年四月一日に三ヵ村域をもって若穂町が発足し、旧村名は町内の大字となった。町名は綿内・川田・保科の三ヵ村の呼び名の頭音をとり、この音を組み合わせて、「稲の若穂のごとく伸びゆく町」という願いを新町名に託した。
昭和四十一年十月十六日、若穂町など一市・三町・三ヵ村は長野市と合併し、川田地区は若穂牛島・若穂川田の大字に分けられた。