町川田・東川田・小出・牛島四ヵ村の四〇〇戸の家々で、一七八五人(慶応三年「家数改帳」)の村人が明治の黎明(れいめい)を迎えた。その後、川田村は戸口は漸増し、明治四十四年(一九一一)には戸数五五八戸、人口三二九七人の長野市近郊の純農村として発展してきた。大正時代より第二次世界大戦中ごろまでは、戸口の横ばい状態がつづいた。大戦末期ごろより都市からの疎開による人口増加が始まり、昭和二十五年(一九五〇)には戸数七〇八戸、人口三九五八人になった。しかし、戦後の復興が進むにつれ同四十年代まで人口の流出がつづき、同四十五年には人口は三四〇〇人を割った。同四十二年に県営住宅団地が造成され、落合橋・関崎橋の永久化により長野市のベッドタウン化が進み、同五十年代に入ってようやく戸数・人口ともに増加に転じた。