一 古墳・遺跡

889 ~ 890

 川田地区では、先土器時代・縄文時代の遺物は今のところ発見されていない。この地区では川田南の十二(じゅうに)山山麓(さんろく)に、人がはじめて住みついたといわれる。弥生中期の土器が十二山・塚本(王子塚(おおじづか))・関崎(せきざき)から、また、小出堤に面する所ノ脇(しょのわき)(瀬ノ脇・庄ノ脇ともいう)遺跡からは、木材加工に使用したと思われる太形蛤刃石斧(はまぐりせきふ)が四点出土している。

 古墳時代は、保科川扇状地の扇端部にあたる塚本・小出に集落が形成された。扇端部から千曲川にかけて広がる後背湿地を稲作に、扇状地・崖錐(がいすい)上を畑作にして農耕生活を営んでいたと考えられる。豊かな生産力を象徴するかのように、川田には数多くの古墳が群をなして存在している。関崎から奇妙山に連なる尾根上には、袖林(そでばやし)山古墳群(三基)、大室(おおむろ)古墳群北山支群(二二基)が、ここから保科の谷に張り出す大星(おおぼし)山の山麓から山頂にかけて大星山古墳群(六基)がある。塚本の扇端にある王子塚(おおじづか)古墳と合わせて確認されたものだけでも三〇基に達する。これらはほとんど積石塚古墳で、なかには直刀・馬具・銀環・鉄鏃(てつぞく)・土師器(はじき)などを出土したものもある。

 大室古墳群北山支群の一八号墳は、前方後円墳で「大室滝辺(おおむろたきべ)山双子塚(ふたごづか)」とも称されている。全長五〇メートル、後円部径二五メートル・高さ五メートル、前方部幅一八メートルの規模を有する大室古墳群では唯一の前方後円墳である。

 王子塚古墳は市指定史跡で、塚本集落の東南端にある。地蔵(じぞう)山とも呼ばれている。高さ二・九メートル余、直径二二・五メートルの塚は前方後円墳との説もある。しかし、北斜面は深くえぐられ、北東部も石垣が築かれており原形を失っている。王子塚は、扇端部に位置する単独墳で、しかも規模が大きいことから、築造年代は五、六世紀のものと考えられている。塚上には市文化財に指定されている宝笹印塔(ほうきょういんとう)がある。


写真3 塚本の王子塚古墳(市史跡)(若穂公民館提供)


写真4 王子塚上の宝篋印塔(市文化財)