川田条里遺跡は、千曲川の自然堤防上にある町川田・領家の集落から、保科川扇状地末端の集落、下和田に至る水田地域である。この水田地帯は千曲川によって形成された後背湿地にあたる。さらに、ここは赤野田(あかんた)川・保科(ほしな)川が流れて、洪水の影響を受けやすい地域であったが、水利に恵まれ古代から水田を主体とした地域であった。
川田条里遺跡は圃場(ほじょう)整備事業にともなって、市教育委員会による緊急発掘調査がおこなわれた。また、上信越自動車道がこの水田地帯のほぼ中央部を横断するため、県教育委員会による大規模な発掘調査がおこなわれた。その結果、弥生時代から江戸時代までの水田跡が確認され、条里遺跡であることが明らかになった。とくに県内最古と推定される弥生時代中期後半の水田跡が検出され、杭列(こうれつ)と水路跡が確認された。また、出土木製品は主に水田の溝、畦(あぜ)のなかから鋤(すき)・鍬(くわ)・えぶり・田下駄(たげた)などの多数の農耕具が出土した。弓・盾(たて)などの武具や、まじないに使われた木札、木製の器が数多く出土している点もこの遺跡の特徴といえる。
地割りの特色は、一般に長地形(ながちがた)の地割りで、更埴市屋代(こうしょくやしろ)の条里遺構と類似しているが、東側では不規則なものが多く混じっている。現在の地割りは第二次世界大戦後の耕地整理でできたものであるが、そのときもかつての条里的遺構の地割りを踏襲(とうしゅう)しておこなわれた。川田宿の町筋は条里形地割りと整合しているが、古城山の麓(ふもと)の東光寺(とうこうじ)参道は不整合である。文政(ぶんせい)四年(一八二一)の東川田村絵図を見ると、川田宿の南に東合坪(ひがしあいつぼ)・西合坪(にしあいつぼ)・囲碁(いご)町の地字が記載され、地名に条里制の名残をとどめている。