河田郷

892 ~ 893

河田郷は、平安の末期から保科郷に属していた。水田地帯には条里制遺跡のあるところから、郷の中心地と推定される。中世初期は保科御厨(ほしなみくりや)・長田(ながた)御厠など伊勢神宮外宮領となった。領家(りょうけ)集落も成立したが、いずれの領家かは不明である。『諏訪御符礼之(すわみふれ)古書』の康正(こうしょう)二年(一四五六)花会(はなのえ)の条に「河田・保科両人御符之礼三貫三百文、頭役拾五貫文」とある。この文書から河田郷は中世の中ごろには保科郷から独立していたとみられる。これ以後、寛正(かんしょう)七年(一四六六)の花会の条にも「宮頭川田、保科左馬助長光、同桑井長経、御符之礼三貫三百文」とみえ、当地が諏訪上社の頭役を勤仕している。

 河田氏は当地の領主とみられる。河田氏は、寛正二年・文明(ぶんめい)十九年(一四八七)をはじめ、しばしば頭役をつとめている。河田氏は寛正七年の頭役勤仕(とうやくきんじ)以後は、郷名はみえても、氏名(うじな)は消え、河田・保科の両郷は保科氏が支配したと思われる。川田の領家地籍には、古城(ふるじょう)・古屋敷(ふるやしき)、大星(おおぼし)山西山稜には古城山(こじょうやま)がある。河田氏の城館跡という。