町川田の東光寺(とうこうじ)の背後の古城(こじょう)山(五五四メートル)の山頂にある。天文(てんぶん)年間(一五三二~五五)に武田氏が築いた砦(とりで)といわれている。また、一説には川田対馬守(つしまのかみ)の居城であったともいう。山頂の本丸跡は東西一五メートル、南北四〇メートル、平坦(へいたん)な台地にある。二の丸、三の丸とつづく曲輪(くるわ)は、腰曲輪様式で、西北に五段、北東に四段、南面に一段を設けている。また、曲輪の高低差は、本丸真下の一六メートルから二メートルがもっとも大きく、以下一メートルから三メートルの段差でつづいている。これは北西、北東の西尾根からの攻撃を重視した曲輪の配置であったことがうかがえる。また、南方の本丸下の曲輪の先端は、上幅一〇メートル、深さ七メートルの鋭く大きな薬研掘(やげんぼ)りの空堀となって落ち込んでいる。本丸北東下の虚空蔵菩薩石祠(こくぞうぼさついしぼこら)や南西斜面のかき取り(角欠け)の跡は、鬼門の位置に当たる。これはこの城跡が中世の山城であった唯一の証(あかし)を残しているものといえよう。(『長野市と周辺地域の城館跡』)。