真田領の川田地区は、町川田・東川田・小出・牛島の四力村に分かれ、蔵入地と知行所が混在していた。寛文(かんぶん)三年(一六六三)の「真田幸道家中分限帳」によると、地頭は東川田村一八人、小出村五人、町川田村と牛島村はそれぞれ一人である。知行高では、村高のうち、牛島村九九パーセント、東川田村八四パーセント、小出村八〇パーセント、町川田村二パーセントが藩士に給されている。牛島村では、高六八五石余(「元禄郷帳」)のうち、六八一石余が家老小山田家(禄高一一六九石)の知行地となっている。慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の「信濃国川中島四郡検地打立帳」(以下「慶長打立帳」と略記)によると、川田村二〇〇三石余、小出村四四四石余、牛島村六〇三石余で、いずれも高井郡内にみえる。その後、寛永(かんえい)のころ(一六二四~四四)川田村は、東部を東川田村(高一〇七九石余)、西部を町川田村(高一〇二一石余)に分けられたが、石高書上げでは、川田村として一村で記された。