犀川と千曲川、赤野田(あかんた)川と保科(ほしな)川の合流点に位置する牛島は、水害常襲地であった。寛保(かんぽう)二年(一七四二)の千曲川満水では、流家二二軒、潰家五〇軒、残家半壊、流死者二六人の被害を出している(『松代満水之記』)。また、弘化(こうか)四年(一八四七)四月、善光寺地震の二次災害、犀川の大洪水では、居家一三軒流失、物置数知れず、泥土の堆積は六〇センチメートルほどあったという(『上高井歴史』)。
村役人は、藩法の布達、年貢の取り立てや村政にあたったが、これ以外に、川欠地の再開発にともなう村人の境界争いの調停、災害復旧普請の責任が重く肩にのしかかった。
村高は天保(てんぽう)五年(一八三四)八一五石余(「信濃国郷帳」)、慶長七年の村高六〇三石余に対し、耕地は三五パーセントほど増加した。この増加率は若穂では際立っている。近世、牛島村は集落は三分しており、犀川左岸に北向川原(むこうがわら)、合流点の西向川原、現在輪中(わじゅう)集落として残る千曲川右岸の牛島本村とからなっていた。慶応(けいおう)四年(一八六八)西向川原の全戸、一九軒が水害を避けて周囲を堤防で囲まれている本村に移転した。この年の牛島村は、戸数九九軒、人口四二三人(「家数等改帳」)。牛島村は明治十二年(一八七九)上高井郡に編入されるまで更級郡に属していたので、合流点の西川原集落がこの村の発祥の地ではないかと推定される。
牛島村は県内においても代表的な輪中(わじゅう)集落といえる。水害を避けるため、囲(かこ)み堤(てい)を築き、堤内を本田、堤外を新田と呼んだ。家は本田を中心に堤の周囲に沿って同心円状に増加していった。宝暦(ほうれき)年間(一七五一~六四)ごろから被害の大きい西部の千曲川沿いに堤防を築き始め、しだいに東部の保科川・赤野田川へと築堤していったことが村絵図で知ることができる。牛島地区が完全に輪中に収められるのは、明治初年のころと思われる。しかし、輪中集落になっても水害、あるいは泥湿に苦しみ、石垣や土盛りをして家屋を立てた(水屋(みずや))。また、掘り井戸に汚物が流入するのを防ぐため、井戸縁を高く築き、その周囲を石垣で囲ったりもした。これらの構造物は、いずれも洪水常襲地で暮らす村人の生活の知恵から生まれたものといえる。水田は村高の一割ほどで、畑では近世末ごろまでは綿花・大豆・甘藷(かんしょ)・菜種・藍(あい)などが主に栽培されていた。