村高は「天保郷帳」に四五五石余、明治七年の『町村誌』に四七〇石余とある。「慶長打立帳」の村高に比べ、江戸時代二五〇年間に二六石余、六パーセントほど村高が増えたにすぎない。慶長初期から明治初期にかけて全国の耕地は倍増している。この点からおして小出村は、江戸初期ごろまでに耕作可能な上地はほぼ開発され尽くされていたと考えられる。
東川田村の長田神社付近の木立ちは、小出・東川田二ヵ村の入会地であった。往来人でにぎわった保科道(ほしなみち)も近くにあり、無宿人の賭場(とば)もたったようだ。松代藩は、天保五年東川田・小出村役人に対し厳重にばくち取締りを命じた。両村は連署で「村内組々に取締役を立て、村役人・頭立一同見廻り、万端厳重に相改め、博奕(ばくち)している者は取り押さえ、早速御注進申し上げる」と請書(うけしょ)を出している。また、保科川沿いの木立ちは、保科道を往来する旅人にとっては憩(いこ)いの場ともなった。貧しい廻国巡礼者に一夜のまどろみを与えたものであろうか、「大門河原(だいもんがわら)の乞食の巣」という口碑も伝えられている。