町川田村・東川田村

903 ~ 903

寛文(かんぶん)(一六六一~七三)のころ町川田村・東川田村に分けられた。川田宿のある西部を町川田村、塚本・下和田・大門・領家組などがある東部を東川田村とした。その後、藩政ではそれぞれ独立した村として扱ってきたが、石高書上げでは一括して川田村として記した。村高は「慶長打立帳」二〇〇三石余、「天保郷帳」二一〇〇石余、明治七年町川田村一〇二一石余、東川田村一〇一四石余(『町村誌』)とある。また慶応四年の「家数改帳」に、「町川田村家数一一六軒・人数五一五人、東川田村家数一三五軒・人数六二一人」とみえる。

 江戸時代は「口減らし」のために奉公に出されることは珍しいことではなかった。東川田村の三蔵(さんぞう)もその一人であった。寛永二十一年八月、数え年七歳の三蔵は一八年の約束で、保科村七左衛門家に奉公に出された。年季が明けて自由の身になるのは二五歳のときである。三蔵が奉公に出されたとき、親の喜右衛門が雇い主宛に「今年は飢饉(ききん)で七歳の悴(せがれ)三蔵をご奉公に差し上げるのは糧助けになるので、どのようにお使いくださっても異存はない」という趣旨の念書を出している(県史近世⑧3二四七頁)。この三蔵の境遇は当時の貧しい庶民のこどもたちに共通した境遇でもあったといえよう。