松代藩領に起きた大規模な農民騒動のうち、寛延(かんえん)四年(一七五一)の田村騒動、天明(てんめい)四年(一七八四)・嘉永(かえい)四年(一八五一)の山中(さんちゅう)騒動は、直接川田・保科など河東の村々には波及しなかった。しかし、明治三年(一八七〇)十一月の松代騒動は河東にも波及し、須坂騒動・中野騒動の導火線にもなった。地域的騒動には川田村も加わった宝永(ほうえい)二年(一七〇五)の赤野田(あかんた)騒動がある。この騒動では、町川田村の肝煎(きもいり)が処刑されている(第一九章第四節赤野田騒動参照)。
松代騒動は、明治三年十一月二十五日、上山田など上郷(かみごう)の村々から起きた騒動で、西山中村々へ波及した。一揆の農民は、石代(こくだい)相場を七俵に戻すこと、藩札と政府紙幣の等価交換などを求めて松代城下へ押し寄せた。河東へは丹波島村付近に群集した一隊が、綱島(つなしま)・大塚(おおつか)・真島(ましま)を経、関崎船渡しを越えて川田宿へと押し出した。一揆は名主に飲食を強要し、村人には一揆に参加することを強要しながら、東川田、赤野田、保科、小出と手分けをして向かった。この騒動に巻き込まれた和田では民家が打ち壊しにあった。一揆のおおかたはその後、大豆島(まめじま)・布野(ふの)の渡しを越え、善光寺町へ向かった。騒動鎮静後、小出村では三人の村人が藩吏によって逮捕拘引(こういん)された(『北信郷土叢書』巻四)。