川田宿

906 ~ 907

川田宿は、北国脇往還松代通りの宿場として、慶長(けいちょう)十六年(一六一一)松平忠輝によって設けられた。松代・福島宿と継ぎ、ときには本街道の丹波島宿とも継いだ。町割りされているので町川田と称した。市村(いちむら)舟渡し場が犀川の増水で川止めになったときなどはにぎわい、「雨降り宿」とも呼ばれた。元文(げんぶん)三年(一七三八)六月、千曲川洪水により川田宿の田畑屋敷は流失した。そのため翌四年現在地に移転した。宿場は「コ」の字型で、宿の出入口は典型的な枡形(ますがた)をなしている。旧宿(古町(ふるまち))の一里塚(長野電鉄河東線と県道交差点北側付近)から直角に南に折れ、下横町(しもよこまち)(約一七四メートル)、直角に右折して本町(ほんまち)(約三六五メートル・幅約一三メートル)に入る。本町西端で直角に右折して上(かみ)横町(約一〇六メートル)、さらに、直角に左折して関崎へと通じている。

 元文四年五月の「町川田村新町割屋敷道成地替指引帳」(県史近世⑧七三四)によると、道に面した両側の屋敷は細かく地割りされ、間口の最大幅は問屋本陣の二五間(四五メートル)から最小二間半(四・五メートル)までさまざまである。本町に比べ横町が概して小割りになっている。下横町では、小百姓分として二八間を八人で割って、平均三間半(六・四メートル)にすぎない。奥行もさまざまで、最大三〇間から最小で七間あり、本町の屋敷は三〇間から二八間半までとほぼそろっている。このように屋敷は大小の差はあっても短冊型に地割りしてある。

 上横町には御蔵屋敷があり、枡形のところには口留(くちどめ)番所が置かれて、宿の出入りを警戒管理した。また、宿場の両端には火伏せの神として秋葉社が祭られている。本町通り中央に幅約二・四メートルの用水堰が貫通し、防火用水、馬の飲み水、旅人のすすぎ水として利用された。北側中央に本陣・問屋を兼ねる西沢家と、その東脇に高札場がある。本陣の向かい側に東から和泉屋、中屋、扇屋の旅籠(はたご)が置かれた。

 川田宿は公定伝馬人足として、人足八人・馬一匹を常備し、高五〇〇石分が伝馬石として課役から免除された。川田宿の助郷(すけごう)村は、牛島・東川田・小出・赤野田新田(あかんたしんでん)・保科の五ヵ村で、いずれも近隣の村である。保科村は、藩用の炭を納めるという理由で助郷人足は免じられ、助馬だけを出した。

 宿は大名や人の宿泊は少なく、物資の流通が中心で、主な荷は米・穀類・からし・茶・くり綿・水油・篠巻・薪炭などである。「川田宿継馬数・人足数帳」(川田・西沢健吉蔵)によると、文政(ぶんせい)五年(一八二二)六月の一ヵ月間に、松代行(北国上り)は馬一〇三匹・人足三二人。馬は本馬(ほんま)八六匹で、そのうち六七匹が売荷(商人荷)を運んだ。福島行(北国下り)は馬二九匹・人足八人、本馬二二匹のうち一六匹は売荷であった。文政二年の福島宿から川田宿までの運賃は、本馬一匹につき七七文、軽尻馬(からじりうま)一匹五二文、人足一人三九文。同五年の川田宿から松代町までの運賃は、本馬一匹につき一一七文、軽尻馬一匹七七文、人足一人五九文であった(『上高井郡誌』)。本馬は四〇貫目(一五〇キログラム)までの荷物、軽尻馬は旅客と五貫目(約一八・八キログラム)までの荷物をつける馬をいい、人足は馬士または荷物を背負う(かち荷)人足をいう。

 寛延(かんえん)二年(一七四九)千曲川通船の願人があらわれると、川田宿は福島・丹波島・矢代の宿とともに反対した。その後、寛政(かんせい)二年(一七九〇)西大滝村(現飯山市西大滝)太左衛門が通船を認可され、天保(てんぽう)四年(一八三三)には松代城下の柴(しば)村まで通船するようになると、川田宿問屋も通船物資を扱うようになった。

 町川田村(川田宿)の元文四年の軒数は八八戸・人口三九六人、文化(ぶんか)十一年(一八一四)一〇〇戸・四五〇人、慶応(けいおう)三年(一八六七)一一六戸・五一一人と増加した。