野渡(のわた)しは「作場船(さくばぶね)」ともいう。藩から認可された舟渡しで、千曲川九渡し、犀川五渡しがあり、牛島の渡しはこの一つである。渡しの維持運営は牛島村がおこなった。延享(えんきょう)元年(一七四四)の「牛島村絵図」(牛島区有)に、千曲川と犀川は二度合流して描かれている。合流点の上流(南部)は、町川田村境付近の町川田村分、下流(北部)は現落合橋付近の牛島村分にある。牛島村の川西にある上牛島組は、この合流点のあいだに位置し、南北は犀川、東は千曲川によって囲まれている。南部合流点の下流、蓮生寺西方に「作場舟渡」、北部合流点の下流綿内村分に大豆島の渡しと思われる「舟渡シ」が描かれている。
延享期の牛島村絵図では、千曲川東部の下牛島村中を東方からきた道は、蓮生寺の手前で丁字路(ていじろ)となる。右折して北進すると北部の綿内村内の「舟渡シ」を渡ったのち、牛島村内をかすめ、大豆島村・善光寺町へと延びている。保科・善光寺道である。丁字路をそのまま西に直進する道は、「作場舟渡」を経て千曲川西岸の上牛島村中で消滅している。この「作場舟渡」が「牛島野渡」で、千曲川によって分断された西の上牛島集落と、東の下牛島集落を結ぶ渡しでもある。慶応四年に残っていた上牛島(西向川原)の七戸が、輪中集落の下牛島に移住したので、上牛島は耕地・荒れ地だけとなった。牛島は、西向河原と呼ぶ千曲川左岸に五〇町歩余の地割慣行地がある。「牛島野渡」は地割慣行地の作場に通う「作場舟渡」でもあった。