二 千曲川通船

909 ~ 910

 千曲川通船計画は寛延(かんえん)二年(一七四九)、水内(みのち)郡権堂村(長野市権堂)瀬兵衛ら四人が坂木陣屋に出願した。しかし、北国街道の宿駅や、沿岸村々は「船積み荷のため宿場継ぎたて荷物が減少する。渇水期の鮭漁・用水堰(せぎ)への引水が困難になる。中馬稼ぎの荷が減少する。川沿いの農作物が綱手(つなで)(舟を綱で引く人足)によって踏み荒らされる。川瀬が深まり川越地の耕作、薪取り、馬草刈りが困難になる」(「通船願書写」川田・西沢健吉蔵)などの理由で反対した。とくに、北国往還の陸送をしている福島・川田・丹波島・矢代の四ヵ宿では、荷物を通船に食われるとして、「通船積荷馬継村々証文」(川田・西沢健吉蔵)を提供し、「薪・炭・雑木小角挽割(こすみひきわり)類・板類・板子三方ならびに寸方類・酒荷・畳・裏付薄縁(うすべり)・砥(と)など九品目は支障はない。しかし、油粕(あぶらかす)・穀類・桶の輪竹・荏(え)・菜糟(なかす)・塩・銓(はかり)の八品目は宿場に支障がある」との理由で通船に反対した。その後、宝暦(ほうれき)十年(一七六〇)、明和(めいわ)九年(一七七二)にも通船を願い出るものがいたが、そのつど四ヵ宿は寛延二年の裁決を根拠に反対した。

 寛政(かんせい)二年(一七九〇)水内郡西大滝村の太左衛門が通船の認可を得、西大滝と福島とのあいだに通船が開始された。その後、文政(ぶんせい)四年(一八二一)松代藩営川船、天保(てんぽう)十二年(一八四一)善光寺町の厚連(こうれん)の川船が就航し、川田宿問屋も厚連船荷積み問屋仲間に加わった。これ以後、千曲川には太左衛門船・松代藩川船・厚連船の三通船が競合した。通船が宿駅の疲弊をもたらすため、松代藩は籾五〇俵を宿場助成籾として与え、各宿駅に通船取締役をおき、船積み荷物を調べて口銭を徴収させ、宿場保護にもあたった。弘化(こうか)二年(一八四五)の「通船積荷物口銭為取替規定書」(川田・西沢健吉蔵)に、「上り・下り荷とも一駄について商人荷物一二文、松代船会所入荷物六文」とある。また、天保十五年四月、新潟湊の積み問屋又左衛門から川田宿通船願人の川田宿問屋西沢又右衛門にあてた庭銭の取り決めにみる商品は、穀類・塩・味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)・溜(たま)り・酢(す)・五泉村上(ごせんむらかみ)茶・油・酒・魚・海草・たばこ・野菜・膳椀類(ぜんわんるい)・瀬戸物類・梨・つもく・菜種・砂糖・蠟(ろう)・金物類・呉服結(つむぎ)類・太物(ふともの)類・芋類(いもるい)・繰綿(くりめん)・藍・笠類・酒粕・石灰・竹木材・油粕(あぶらかす)・こぬかなどである(川田・西沢健吉蔵)。川田河岸は関崎渡船場が兼用された。