善光寺地震と犀川大洪水

911 ~ 913

弘化(こうか)四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震について、東川田村の師入久光(もろいりひさみつ)は「大地震・大洪水日記」に、「領家組近辺は地割れいたし、砂水を吹き上げ、居屋敷・耕地などは、荒れ所などが生じた。上組の大門・塚本・下和田は大揺ればかりで変災はない」と記している。また町川田村では、「村内変死人・怪我人・倒壊家屋御座なく候」と藩に報告し、四月の初旬には諏訪宮(現町川田神社)の石鳥居が地震で倒壊したことを神主・村役人連署で藩に届けている(「諸案文日記扣(ひかえ)」市立博物館蔵)。このように川田地区では地震による被害は軽かった。

 しかし、地震後発生した四月十三日の犀川の大洪水は、「震洪記」に「犀川筋へ押し下す浪先は、牛島・大豆島・川田辺りを充満し、千曲川に差し上がること大山の押し来るごとく、直ちに関崎の渡しを亀岩(かめいわ)の半途に吹きつけ、浪先の猛勢なること筆に尽しがたし」と述べているように、激流は千曲川を乗り越え、川田地区を襲った。関崎山岸から押し出した激流は、町川田村・東川田村領家組を瞬く間に埋めつくし、水かさは二メートルほどにも達した。ぶっきょう沖・塚本古城沖(ふるじょうおき)・轟木(とどろき)・万福寺下(まんぷくじした)、立町(たちまち)・柳原坊主上(ぼうずうえ)土手にかけて一面冠水した。この激流に運ばれた市村の渡し船が坊主上に流れ着き、この船で領家組の逃げ遅れた人びとを救助した。家屋をはじめ、家財・たんす・長持・仏壇など漂流物はおびただしかった。牛島村では水内橋の橋板・賓頭盧(びんずる)木像、塚本西古条(城)には氷鉋(ひがの)村の酒屋の六尺桶が流れ着いた。また、牛島村蓮生寺の釣鐘が高梨村まで流れていった(「大地震・大洪水日記」)。領家組・町川田村でそれぞれ家一軒が流出し、北国脇街道は各所で寸断された。川田宿では福島宿・矢代宿への藩触れ箱などの継ぎ送りができないと松代藩に伺いを立てている(「諸案文日記扣」)。


写真10 牛島蓮生寺の鐘楼門 弘化4年の犀川大洪水では吊鐘が高梨村(須坂市高梨)まで流れていった(倉島勘蔵提供)

 いっぽう犀川本瀬に沿って押し出した奔流は戸数九八(文久四年・一八六四)、村高八一五石余(「天保郷帳」)の牛島村を直撃し、「流失家屋一三軒・物置数知れず、泥土堆積村中二尺余」と大きな被害を与えた。牛島村はこの年に村高の八二パーセントにあたる本新田高六七四石余が川欠・水損で免租されている(『牛島区誌』)。この洪水で千曲川土手はいたるところで決壊した。町川田・東川田・牛島三ヵ村の組合普請土手も三〇〇間(五四五メートル)ほど欠崩壊した。組合村では一五歳から六〇歳までの村人を総動員して五月六日から復旧工事に取りかかった。しかし、被害が甚大で組合村だけでは普請が困難だった。そこで隣村の小出村・赤野田新田(あかんたしんでん)村・保科村から連日一七五人の応援を求めて工事をおこなういっぽう、藩に対しては国役として普請することを繰りかえし陳情した。藩は当初この要請を受け入れなかったが、翌正月に例外的措置として藩普請に決定し、人足賃三三六〇人分、三三両余を三ヵ村に交付した(「大地震・大洪水日記」)。