川田における江戸期の俳人は、善光寺町の宮沢武曰(ぶえつ)や戸谷猿左(えんさ)、戸倉の宮本舟山(しゅうざん)(八朗)の門人、その系統に属する俳人が目立つ(『長野県俳人名辞典』)。寛政(かんせい)期(一七八九~一八〇一)には猿左の門人の川田の葵川(きせん)・楚梁(そりょう)、小出の寄風(きふう)がいる。寛政九年(一七九七)猿左の編纂(へんさん)した『さざれ石』に葵川・楚梁・寄風のほかに、川田の松暁(しょうぎょう)の句が掲載されている。文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)期(一八〇四~三〇)には武曰日門下の領家の自観(じかん)・仙邑(せんゆう)がおり、文政十年(一八二七)武日編纂の『続こまつびき集』に両者の句が記載され、舟山門人には川田の東朝(とうちょう)がいた。舟山編纂の白雄(しらお)・虎杖(こじょう)・葛三(かつさん)の追善句集『はなの』は東・北信を中心とする信州春秋庵系の俳人が総出句した句集である。この句集に川田地区では、東朝のほかに川田の厳耕(げんこう)・西川(せいせん)の句もみえる。また、文政七年刊行された舟山・武曰判の月並句合高点集『雁(かり)の使』に川田の沢人(たくじん)の句がある。天保(てんぽう)期(一八三〇~四四)から幕末の俳人には牛島の雨桐(うとう)・玄枝(げんし)・至月(しげつ)・蓼虫(りょうちゅう)がいる。これらの俳人の句は、いずれも嘉永(かえい)二年(一八四九)に刊行された上州出身の須坂藩士赤山(せきざん)編の『俳諧百世草(はいかいももよぐさ)』に収録されている。
明治初期には十二年(一八七九)刊行の『古今俳諧明治五百題人名録』に川田の三斎(さんさい)・雪庵(せつあん)・里貞(りてい)・李青(りせい)・花遊(かゆう)の名が、『俳諧三千題早引略解』(五味寥左(りょうさ)編・明治五年刊)には雪庵、川田の梧風(ごふう)の名がみえる。牛島の暉月(きげつ)は俳諧師匠として近隣の子弟数百人を教え、同十七年「葉桜やよれば何処やら匂めく」の句碑が建てられた。また、塚本の菱水(りょうすい)は書画にも秀で、塚本に「十六夜や硯の水も月の露」の句碑があり、門弟に桜洲(おうしゅう)・月光(げっこう)らがいた。