第二次世界大戦時代は、川田地区も例外なく戦時体制に組みこまれていった。昭和十二年(一九三七)川田村国防婦人会が、同十五年には大政翼賛会(たいせいよくさんかい)川田支部が結成された。同十三年満蒙開拓(まんもうかいたく)青少年義勇軍(送出者合計十二人)を送り出し、また満州上高井郷(かみたかいごう)建設に川田村でも先遣隊が出発した。いっぽう戦争の拡大につれ青壮年層の徴兵、軍事工場への徴用で農家の労働力不足は深刻となった。川田国民学校では、援農のため農繁期には高等科の生徒は勤労奉仕に駆り出された。村では託児所を設けて労働力不足に対処した。大戦末期には食糧増産のため校庭も一五〇坪ほど開墾された。
米軍機の本土空襲が激しくなると、京浜地区などから縁故疎開、学童の集団疎開があった。終戦の昭和二十年九月末の縁故疎開による転入生は、一九一人におよんだ。学童集団疎開は、町川田の東光寺に同年四月東京市足立(あだち)区立柳原(やなぎはら)国民学校の学童六七人が来、十一月ごろ帰京した(『川田小学校百年のあゆみ』)。
同年八月十三日の長野飛行場を中心とする米軍艦載機グラマンの空襲は地域の人びとを驚かせた。空襲は早朝七時ごろから五波にわたっておこなわれた。川田地区の空襲はグラマン五、六機による第五波の空襲であった。軍事物資が集積されていた長野電鉄河東線の信濃川田駅が標的にされ、三人が死亡、五人が負傷した。同地区の民家や川田国民学校も銃撃された。学校では機銃掃射によって講堂・校舎など九五ヵ所に被弾した。学校長は「児童は一名も登校しておらず、職員のみ防護体制にありしも負傷者一名もなく、微傷だに負はざりしは幸なりき」と県知事に空襲被害届を出している(県公文書)。