農地解放と村の民主化

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昭和二十一年から断行された農地改革で、川田村は田二九町歩、畑三八町歩が小作人に開放され、牛島共有地三九町歩の持ち分は均等化された。なお町川田共有地三四町歩余は、昭和七年千曲川大堤防の完成により、すべて堤内地になって水害の危険がないため、一枚一〇〇坪(三三〇平方メートル)に耕地整理をおこない、同十二年に各戸の持ち分権にしたがって個人の所有地となっていた。平成七年(一九九五)に竣工した「町川田業務団地」は、共有地であった土地と旧川田宿の古町(ふるまち)地籍に造成されている。

 農地解放の結果、昭和二十三年の川田村の小作地は開放直前の三六パーセントから一六パーセントへと激減した(『上高井郡誌』)。また、小作料も戦前は「刈り分け」とか「一反歩四俵取り」とかいわれ、水田は現物納が一般的であった。小作料は戦争中から低減され、金納化が進んでいたが、改革の結果小作料率は生産額の五パーセント以下で、戦前のように小作料が農業経営を圧迫する要因となっていない。農地解放により、小作料収入に依存していた不在地主や不耕作地主がほとんど消滅したことや富の均衡した自作農が増加したことなどが民主化をいっそう促進させた。