土地改良事業

921 ~ 921

保科川扇状地の扇端から千曲川氾濫原(はんらんげん)にかけて、面積およそ一一〇ヘクタールの川田地籍は、赤野田(あかんた)川(六五ヘクタール)・保科川(二〇ヘクタール)と扇端の湧泉(一五ヘクタール)に灌漑水を求めていた。赤野田川・保科川はいずれも強酸性で、水量も不足であった。当時の食糧増産の国策にそって昭和二十七年(一九五二)から同二十九年にかけて水源を地下水に求める県営水利工事がおこなわれた。この工事は、扇端の三六〇メートルの等高線に沿って掘った、六ヵ所の掘り抜き井戸を利用して、深さ一〇〇メートルの地下水を毎秒〇・二一立方メートル揚水し、約三・五キロメートルいの開渠(かいきょ)を新設して既設の用水路に通水した。この工事の竣工によって水質ばかりでなく、干ばつの問題も解消した。この地籍の耕地整理は昭和三十年から三十二年にかけておこなわれ、田は乾田化し麦作もおこなわれたが、その後の経済の変動により麦作は衰退していった。