養蚕から果樹農業へ

921 ~ 922

養蚕の盛衰は繭価の変動に大きく左右される。大正・昭和の経済恐慌期に繭価は大暴落し、養蚕農家を苦境に追いつめたが、養蚕は現金収入の中心的な位置を占めながら戦後を迎えた。昭和二十三年(一九四八)の川田村の農家五二八戸のうち、六七パーセントの農家で養蚕がおこなわれ、収繭量は一戸平均一二八キログラムであった。昭和三十年代前半ごろまでは養蚕農家は漸減していったが、同三十三年は一戸当たりの収繭量は、逆に一八三キログラムと増えている(統計資料)。しかし、高度経済成長期時代の三十年代後半からは、養蚕農家は激減し、桑畑はりんご・桃・ぶどうの果樹に改植され、平成時代に入ると養蚕は川田地区ではみられなくなった。

 川田地区のりんご栽培は、川田村牛島の義家判之助・倉嶋幾右衛門が明治二十年代、おのおの約二反歩ずつりんごを栽培したのに始まる。同三十年には、牛島協同果樹組合が発足した。組合では地割慣行地の千曲川左岸の西向河原沖の荒れ地約一万五千坪を借りて、りんごを紅魁(べにさきがけ)・祝(いわい)・赤竜(せきりゅう)・倭錦(やまとにしき)・紅玉(こうぎょく)などの品種約千五百本、ほかに桃・桜桃・栗などを植えつけた。この牛島のりんご栽培は、豊州村別所(現須坂市豊州)と同じく上高井郡下では最初の集団りんご栽培地といわれている。大正末期から栽培者が増加し、昭和二十一年の川田村では、二七ヘクタールにりんごが作付けされていた。同二十三年、作付け統制が廃止され、養蚕の不況も重なってりんご栽培面積は急増し、同三十三年には畑地への作付け率は五〇パーセントを超えた。

 上高井郡の桃の栽培は、昭和三年(一九二八)に川田村小出の坂口久志(さかぐちひさし)が、上水内郡中郷(なかさと)村平出(現上水内郡牟礼村平出)から桃の苗木を取り寄せて植えたのが始まりといわれている。その後、栽培者も増加し、同十年には小出園芸組合も結成された。川田の桃の栽培は、古い産地の小出を中心に地割慣行地であった牛島・町川田でも栽培が多い。町川田では同五十年ごろ農林省の補助事業として外新田(としんでん)桃団地が造成された。