四 上信越自動車道の開通と業務団地の造成

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 千曲川右岸の若穂地区は、交通網の不備もあって、これといった企業の進出もなく、農業に依存する度合いが高かった。昭和五十三年(一九七八)の全世帯に対する農家の比率は、対岸の更北地区は三六パーセントであったが、若穂地区は六一パーセントと高かった。若穂でも川田の農家率は一番高く七〇パーセント、農家数五一三戸、専業農家は五四戸あった。

 昭和四十一年に落合橋、同四十七年に関崎橋が永久橋化され、同五十二年に主要地方道長野菅平線川田バイパスが開通した。交通網の整備や自家用車の普及、農産物の価格の低迷などから兼業化、離農が進んだ。平成六年(一九九四)には農家数三二三戸、農家率三四パーセントと激減した。

 交通路の整備が進むとともに、企業も工場用地をこの地に求めるようになった。自然に恵まれた小出地籍の松原に四十五年、長野ジェコー株式会社本社工場(平成七年三月従業員二四六人)、平成三年には新光電気株式会社若穂工場(平成八年四月従業員四二〇人)がそれぞれ操業を始めた。これらの企業に加えて、大きくこの地区を変貌させたのは、同五年開通した上信越自動車道と、同七年に造成された県による「町川田業務団地」である。上信越自動車道の開通に合わせ、川田地区でも関連道路の改修整備が進んだ。長野インターから約四キロメートルほどのところにある分譲面積一二ヘクタール余の「町川田業務団地」には、大手運輸会社の「名鉄」「福山」をはじめ、有力企業が進出し営業を始めた。川田地区は、二一世紀へのエネルギーを秘めた古くて若い地域といえよう。