行政区画の分合

929 ~ 929

慶安(けいあん)元年(一六四八)に赤野田新田(あかんたしんでん)、元禄(げんろく)年間(一六八八~一七〇四)ごろまでに袖山(そでやま)新田が開拓された。元禄十五年の「元禄郷帳」によると高井郡保科村の枝郷として両村の名がみえるが、藩政時代は赤野田新田村だけが一村として扱われ、ともに松代領の村として明治維新を迎えた。明治四年(一八七一)の廃藩置県が布告された当時は、保科村と称し、一村であった。同五年の長野県の戸籍区で保科村は第三八区に属した。同七年に大小区制が施行されると北第一七大区第一小区となった。同十二年大小区制は廃止され、高井郡は上・下二郡に分割され、保科村は上高井郡に属した。