保科村は廃藩置県の布告以来一村であり、明治五年・七年の行政区編成にも隣村との合併の気運はなかった。同二十二年の町村制の施行を迎えたが、このときも合併の動きはなかった。保科村は当時としては規模も大きく、村財政も堅実であったので、県から一村のまま独立に耐えるものと認められた。同年四月一日からそのまま新村として発足し、以来昭和三十四年(一九五九)の綿内・川田・保科の三ヵ村合併による若穂町発足まで存続した。
市制・町村制の施行
保科村は廃藩置県の布告以来一村であり、明治五年・七年の行政区編成にも隣村との合併の気運はなかった。同二十二年の町村制の施行を迎えたが、このときも合併の動きはなかった。保科村は当時としては規模も大きく、村財政も堅実であったので、県から一村のまま独立に耐えるものと認められた。同年四月一日からそのまま新村として発足し、以来昭和三十四年(一九五九)の綿内・川田・保科の三ヵ村合併による若穂町発足まで存続した。