若穂町の発足

930 ~ 931

昭和二十八年町村合併促進法が公布施行され、同三十年高井郡南部四ヵ村のうち、井上村が須坂市に合併すると、保科・川田・綿内の南部三ヵ村の合併が村政で取り上げられるようになった。翌三十一年、三ヵ村合併協議会が発足し、村ごとに合併条件を持ち寄って検討することにした。このとき保科村は、「村有林野については財産区を設定すること」「消防団の現有機械、その他の設備は現状のままとすること」など六ヵ条を合併の条件とした。三ヵ村の合併条件は、協議会では調整がつかなかった。そこで、この調整は三ヵ村の村長に一任されたが、保科村は合併にはあまり積極的ではなかった。村民には合併によって保科村が辺地になる不安もあった。それに村有林収入によって村財政が堅実であったこと。一三七戸焼失した大正五年(一九一六)の保科大火を教訓にして消防施設を充実してきたこと。これらが合併によって均等化されることの懸念もあった。世論調査の結果、合併反対五四パーセントの数字は前述の村民の意識を反映したものといえよう。その後、自治省や県の三ヵ村合併の強い行政指導もあって、昭和三十三年十二月、三ヵ村議会で合併の決議をおこなった。しかし、保科村では村議会決議ができなかった。そこで川田村・綿内村は二ヵ村合併の新村を同三十四年四月一日に発足させることにした。二ヵ村合併という新たな展開で、保科村では同年二月十七日最後の方法として、合併に対する住民投票が実施された。その結果賛成一〇四四、反対七三三となって合併に参加することになった。

 昭和三十四年四月一日、三ヵ村合併による若穂町が発足し、保科村は町内の大字「保科」となった。