四 戸口の移り変わり

932 ~ 932

 町村制の施行当時の保科村は、若穂区では綿内村に次ぐ大村で、戸数五〇四戸・人口二七〇二人(明治二十四年・一八九一)、戸数・人口とも若穂区の三割を占めていた。しかし、明治二十六年に信越本線が全通すると群馬県・関東地方を結んでいた保科道(大笹道ともいう。現主要地方道長野菅平線)は衰微した。さらに、大正十一年(一九二二)に長野電鉄河車線が開通し、川田駅・綿内駅が設置されると保科村は辺地と化した。戸数・人口は微増していたが、昭和初期には人口占有率は川田地区に抜かれた。この状態は長野市合併後も数年つづいた。昭和四十二年に若穂団地、つづいて白塚団地が造成されると人口は激増に転じた。同四十五年以降は戸数・人口とも川田地区を抜き、平成七年(一九九五)十月一日の国勢調査では一〇四六世帯、人口三七二九人となった。このように地区として人口は激増している反面、持者・高岡など山地集落では深刻な過疎化が進行している。


写真2 過疎化に悩む山間地集落(高岡)