保科郷は、奈良時代から平安時代にかけてみえる郷名で、高井郡五郷の一つである。『和名抄(わみょうしょう)』に「保之奈」(ほしな)とあり、のちの「保科」にあたる。宝亀(ほうき)五年(七七四)穂科郷から衛士(えじ)の養物として布六反が貢進されている。また、大同(だいどう)元年(八〇六)坂上田村麿が奥州遠征の帰途、この郷に立ち寄り鎮守として自分の兜(かぶと)の前立「鉄鍬形」(重要文化財)を納めたという清水寺がある。平安時代になると郷名は文献から消え、かわって長田御厨(ながたのみくりや)・保科御厨(ほしなのみくりや)が出てくることから、この郷は伊勢神宮領となったことが知れる。保科・川田地区がこの郷域と推定されている。