保科御厨

935 ~ 936

保科御厨(伊勢神宮領)は、平安末期から南北朝期にかけてみえる。『吾妻鑑(あずまかがみ)』の文治(ぶんじ)二年(一一八六)の「乃貢未済(のうみさい)(年貢未納)の庄々」のなかに保科御厨の名がみえる。また、明徳(めいとく)三年(一三九二)三月の高梨朝高言上状には、「高井郡保科御厨内善哉(ぜんざい)郷内知行分之事」として江部山城守の本領知行地であることを記している(高梨文書)。善哉郷は、「ぜんぜばこ」「ほりのうち」の小名地名がある保科の上和田あたりと推定されている。こうした点から保科御厨を『和名抄』記載の「穂科」郷内に設けられた長田御厨とは別の御厨という説も出た。『神鳳抄(しんぽうしょう)』の建久(けんきゅう)四年(一一九三)十一月の項に、信濃九ヵ所の御厨の一つとして「長田御厨、一名保科二八〇町、上分四丈布二〇〇段・神馬(しんめ)二疋・雑用布一〇〇段」とあるところから、長田御厨と同一とする説が有力である。

 外宮領長田御厨は長承(ちょうしょう)元年(一一三二)朝廷から御厨であることが確認されている。同三年、国司がこの御厨を廃止しようとしたので神人(じにん)(神宮側の役人)とのあいだに紛争が起こり、神人が殺されるという事件があった。このときも御厨としての正当性を朝廷から保証されている(『中右記(ちゅうゆうき)』)。延元(えんげん)四年(一三三九)十月の「神領給人引付」には「長田御厨、布二百端、神馬一疋」(神宮文庫)とあって、長田御厨は南北朝のころまでは外宮に神役を貢進していたことが確認される。その後、戦国期になると両御厨名はみえず、保科御厨は保科、河田の二郷に分かれ、それぞれ保科氏・河田氏が支配した。

 保科・長田両御厨の神明社は小出の長田(ながた)神社という。江戸時代の氏子は保科・赤野田・小出・町川田・東川田・牛島の六ヵ村であった。このうち保科村が親郷として特別の権利をもっていた。祭事においても保科村が優先権をもち、保科村の行列が到着しないうちは、他村の行列は境内に入ることはできなかった。また、本殿の鍵も保科村が預かっていた。これは保科村が御厨時代の中心であったことによると考えられる。