霜台城跡

936 ~ 937

太郎山(九九六・九メートル)西方支脈の須釜(すがま)・川田小出(こいで)の境の突出した標高八〇〇メートルほどの位置にある。延徳(えんとく)年間(一四八九~九二)保科正利が築城したと伝えられている。本丸・二の丸・三の丸跡と思われるところは、方形に近い段郭になっており、堀切り・土居跡も残っている。石垣は、大部分が崩れて原形をとどめていない。緩傾科地には、いくつかの曲馬場と思われる築構跡もみられる。左右の側面は絶壁に近く、急斜面で、登ることは困難である。最上段の本丸跡はほぼ台形状で、長さ四〇メートル・下底三〇メートル・上底一五メートルほどである。本丸と二の丸のあいたに幅七メートル・深さ二・六メートルの大堀切りがあり、上居跡もみられ、小出側には水の手がある。このあたりから焼小麦・折刀・木片など種々出土したという。付近に城窪(じょうくぼ)・弾正岩(だんじょういわ)・敵見岩(てきみいわ)の小名が残る。霜台(そうだい)とは弾正忠のことで、保科氏が代々弾正だったので、この名がついたか、あるいは、この城と尾根つづきの春山城は信濃守護上杉朝房(霜台)と関係深く、その名をとったものか。


写真3 霜台城跡の須釜城窪山と石垣 (坂口鶴雄提供)