保科氏館跡

938 ~ 938

伝承によると、保科高下にあった広徳寺は、永正(えいしょう)十年(一五一三)、村上頼衡(よりひら)の乱にあって伽藍(がらん)を焼失した。このとき、須釜にあった保科氏の居館も焼け、裏門だけが残った。館主保科正利は伊那高遠に走った。天文(てんぶん)二年(一五三三)広徳寺が、この保科氏の居館跡に再建され、寺の総門は保科氏館の裏門という。また『町村誌』に正利の弟、左近将監(さこんのしょうげん)館跡について「東西二二間(四〇メートル)・南北四一間(七五メートル)、面積三反二畝二四歩(三二・五アール)、西の方字町滝崎にあり、いま宅地となる」とある。