保科古道と保科宿

938 ~ 939

中世善光寺平と関東を結ぶ主要な道は保科道(大笹道(おおざさみち))であったという。保科道には、新古三筋の道があった。保科川沿いに菅平西組へ登る道(現主要地方道長野菅平線)、山間部入り口の山内(やまうち)で分岐し、笹平口の山の神より持者背後のノボロから尾根道を登り、菅平石戸山の東鞍部(あんぶ)、地蔵裏の地蔵峠(保科峠)から西組北端に出る道、赤野田川左岸の九十九曲(くじゅうくまがり)から尾根道を保基谷岳山腰から西組南端への道である。文治(ぶんじ)三年(一一八七)二月、三浦介義澄邸で将軍頼朝を迎えて酒宴がおこなわれた。このとき、保科宿の遊女長が訴訟のことで鎌倉に出向いて三浦介邸に居合わせた。このことを聞いた頼朝は、遊女長を酒宴に招き、郢曲(えいきょく)(今様歌)を舞わせたと『吾妻鑑』にある。中世には保科宿は遊女が置かれ、栄えていた宿場であったことがわかる。その後、交通路の変化などによって保科宿は衰え、保科川・赤野田川の水害により宿場街は消滅してその所在・位置は不明である。赤野田谷口に「駒場(こまんば)」「町ノ入」の小名のあるところから、ここを宿駅の名残としている(『信濃国地字略考』)。また、保科川谷口の町滝崎には、両端に桝形(ますがた)を構える約二〇〇メートルの町並みが残るところから、ここに推定する説や、保科川右岸崖上の清水寺のある在家という説もある。