一 神社

940 ~ 942

 赤野田神社 赤野田(あかんた)・宮前 ①祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ) ②由緒 慶安(けいあん)元年(一六四八)三〇石余の新田が高請(たかうけ)され、赤野田新田村が成立した。元禄(げんろく)十年(一六九七)の松代藩『堂宮改帳』には「カイヤ神明宮地小宮有、堂伊勢宮地ほこら有」とあるので、創立は江戸初期ごろと推定される。皇大神社と称したが、明治八年(一八七五)現社名に改めた。境内地には同四十年代に近隣から移転された石祠(いしぼこら)、木祠(もくし)、石仏群がある。秋の例祭に奉納される太々神楽(だいたいかぐら)は市無形文化財。

 専達(せんだつ)三嶋神社 高岡・滝ノ沢 ①祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)・罔象女神(みずはのめのかみ)・和多志大神命(わたしのおおかみのみこと) ②由緒

 高岡集落の東はずれの山腹にある。社伝によると延暦(えんりゃく)年間(七八二~八〇六)坂上田村麻呂が奥州征伐のおり、当社に戦勝を祈願した。このとき田村麻呂は、保科郷の東方に位置して高く、深山に豊かな耕地が多くあるので高岡と改めたという。また、字名「水の狭(はざま)」「街道河原」「村中」の三ヵ所の池に島があるところから、「山神社」に「三嶋大明神」と神号を授けたとも伝えている。三ヵ所あった池は水がかれて今は一ヵ所だけとなってしまった。この池を「滝ノ沢」と呼んでいる。その後、文治(ぶんじ)二年(一一八六)保科光利によって再建され、嘉永(かえい)五年(一八五二)に現社名に改号した。大正五年(一九一六)の保科大火のとき、高岡もほとんど焼失したが、この社の本殿と鳥居は類焼を免れた。

 高井穂神社 引沢 ①祭神 健御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと) ②由緒 当初祭神は、保科郷の開拓神といわれる馬背神であったという。その後、保科氏が当地方を領するようになって、諏訪両社の祭神二柱が合祀(ごうし)され、諏訪宮と称し、保科氏の代々の守護神とした。そして、神域の拡張、社殿の再建は保科氏がおこなってきた。

 文政(ぶんせい)六年(一八二三)、現社名に改号した。明治六年、保科村は長田神社(川田小出)の氏子を離れて、高井穂神社の氏子となった。これ以来、高井穂神社は保科八地区の総社(そうじゃ)となった。この神社にも坂上田村麻呂の戦勝祈願伝承があって、そのとき奉納したと伝えられる直刀・獅子頭が社宝として現存している。当社には氏子によって伝承されている「赤熊(しゃーま)」「天富貴舞(あまぶきまい)」という祭事がある。

 東山神社 上和田 ①祭神 建御名方命・八坂刀売命 ②由緒 諏訪大祝(おおほおり)行遠が英多(あがた)郷関屋(松代町豊栄)よりこの地に移り、諏訪社を創建したと伝えている。行遠は郷名を氏名として保科四郎大夫と名乗り、子孫は保科郷の豪族として栄えた。創建当初は行遠の居邸の地、堀の内の諏訪地籍に鎮座していた。その後、たびたびの赤野田川の洪水に災いされ、天文(てんぶん)二十年(一五五一)この地の地頭、和田修理大夫が現在地に遷宮したという(『信濃宝鑑』)。明治八年諏訪社から現社名に改号した。御神体の木像は行基(ぎょうき)作と伝えられ、また、覆殿(おおいでん)のなかにある本殿の向拝柱上の桁下(けたした)には、神社には珍しい逆卍(まんじ)の彫刻が施されている。これらはいずれも明治初期の神仏分離令の網を逃れ、神仏混合時代の名残を今に伝える文化財でもある。

 若宮八幡宮 町滝崎 ①祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと)・息長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと) ②由緒 当社は町滝崎の南山麓に鎮座している。古くから町滝崎・久保の「お八幡さま」として親しまれてきたが、明治末期の神社統廃合令によって、いったん高井穂神社に合祀された。その後昭和四年(一九二九)、現在地に拝殿を建立して分祀(ぶんし)した。