延命寺 浄土宗 久保 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 智現山(ちげんざん) ③由緒 寺伝によると、保科の郷士久保伯耆守(ほうきのかみ)保正の嫡子(ちゃくし)、保国が豊臣秀吉の家臣になっていたが、文禄(ぶんろく)四年(一五九五)七月関白秀次のあとを慕って高野山の奥山寺で自刃した。保正は子保国の菩提(ぼだい)を弔うために現保科小学校地籍に延命寺を創建した。その後、同寺は保科川の水害を避け、宝暦十三年(一七六三)現在地に再建された。当寺には竹製・紙張りに漆塗りの珍しい火消し道具が残されている。京都智恩院第五十八世門主祐月(ゆうげつ)は当寺の出である。
広徳寺 曹洞宗 須釜 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 円攪山(えんかくざん) ③由緒 寺伝によると、延徳(えんとく)元年(一四八九)保科正利が当初高下地籍の居城地に当寺を創立し、松庵寿永を開山とした。その後、永正(えいしょう)二年(一五〇五)村上氏に攻められ、伽藍(がらん)は全焼したが、天文(てんぶん)二年(一五三三)現在地に再建された。ここは保科氏の居館跡で、現総門は居城裏門を移築したものという。その後、元禄(げんろく)二年(一六八九)および天明(てんめい)二年(一七八二)に火災のために焼失した。現在の本堂は同五年に再建されたものである。本堂の庭に保科正利の墓・頌徳碑(しょうとくひ)がある。また境内にある弁天堂には永禄(えいろく)四年(一五六一)武田信玄が奉納したと伝えられる弁財天が安置されている。京都南禅寺の開祖大明国師(だいみんこくし)は保科氏の出であり、総門前に国師の碑がある。
清水(せいすい)寺 真言宗智山派 在家 ①本尊 聖観音 ②山号 阿弥陀山(あみださん) ③由緒 当時は観音山の谷間にある。「保科の観音さん」とも呼ばれ、牡丹(ぼたん)や、重要文化財(九点)の多いことでも知られている。
縁起によると、僧行基(ぎょうき)が天平(てんぴょう)十四年(七四二)、諸国をめぐって陸奥(むつ)からの帰途この地に草堂を創建し、自ら千手観音を彫刻して草庵を建て安置した。その後、延暦(えんりゃく)年間(七八二~八〇六)、坂上田村麻呂が伽藍を建立させたと寺伝は記している。田村麻呂が寺に奉納したと伝えられる胄(かぶと)の「鉄鍬形」は重要文化財である。 当寺は地方寺院としては珍しく、堂塔をそろえた寺で、総門・鐘楼・本堂・庫裏(くり)を備え、仁王門から奥の院の観音堂にいたる参道の両側には、経堂・三重塔・大日堂・釈迦堂・薬師堂・八将社があった。これらの諸堂・諸仏像は大正五年(一九一六)の火災ですべて焼失した。重要文化財の鉄鍬形・絹本著色両界曼荼羅(まんだら)図(ず)の二点は当時東京の遊就館に出品中で類焼を免れた。同六年に奈良県磯城(しき)郡(現桜井市)石位寺(いしいじ)旧蔵の千手観音・聖観音・地蔵菩薩ほか一六体を迎えて安置した。当寺の七体の重要文化財の仏像は、このときに移されたものという。大正十二年に本堂が再建された。昭和二十八年(一九五三)に新庫裏が建設され、同五十年には奥の院観音堂が再建された。仁王門・三重塔・大日堂跡は市指定文化財。
末寺に、保科和田の長福寺(ちょうふくじ)、川田塚本の万福寺(まんぷくじ)、小出の東明寺(とうめいじ)がある。
長福寺 真言宗智山派 上和田 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 羽黒山(はぐろさん) ③由緒 寺伝によると、天平(てんぴょう)年間(七二九~四九)のころ、行基が和田の山中に福寿庵を結んで山頂に羽黒権現を祀(まつ)った。これによってのちに羽黒山長福寺と改称したという。また、明徳(めいとく)二年(一三九一)現在の地に堂宇が再建され、永禄(えいろく)五年(一五六二)秀雄(しゅうゆう)によって開山されたとも伝えている。
境内地にある聖観音菩薩を本尊として安置する権現堂は、当初東山に建てられていたが焼失し、当寺の境内に移したものである。また、境内入り口には、宮崎地籍四辻から移転された「右羽黒権現」と刻まれた文政(ぶんせい)三年(一八二〇)銘の納経道標碑もある。