村は生活共同体の場であった。そのため村では幕府や藩の法令とは別に、自分たちの生活を規制するためにさまざまな規定を作った。規定は村掟(むらおきて)とか、村定(むらぎめ)といわれ、村政から村人の衣食住の生活にまでおよぶ細かいものであった。
保科村では寛政(かんせい)四年(一七九二)二月、名主など村役人の給与や入札(いれふだ)の方法のほか、堰払(せぎばら)いや河原普請人足の出し方、小作料の割引法などについてつぎのように取り決めている(高井穂神社文書)。
一、名主の給与は籾(もみ)一〇俵とする。
一、組頭役・長百姓の給与の分は籾一〇俵とする。
一、三役人の入札(選挙)は、土地の所持規模に関係なく、三役として適している者の名を記入捺印して銘々が入札する。
一、堰払いは、百姓は一軒につき一日賃銭なしで勤め、残り人足で河原普請をする。
一、満水の節、役会に依頼されて触れを出すものには賃銭を支給する。
一、小作料の割引は藩の年貢割引に準じ、役人・頭立・小組頭寄合いの上、協議して決める。
一、村経費の各戸割りの節は、頭立二人・小前二人が立ち合って決める。
名主など村役人の給与籾一〇俵は、半摺(はんずり)とした場合、玄米二石五斗(四五一リットル)ほどである。今日の生産者米価にあてはめてみると、年俸一二、三万円ほど。この程度の年俸でも村人の負担は大変であった。また、村役人はこの程度の給与で村の行政、年貢徴収の全責任を藩から課せられていたのである。
また、赤野田(あかんた)新田村では、伊勢参宮についてつぎのような取り決めをしている(県史近世⑧)。
一、伊勢参宮から帰宅したら、参宮者・氏子は当所の鎮守の神前において酒を頂戴する。
一、触れ番は一軒銭四文ずつ酒代として徴収する。
一、参宮者の家は、原則として参宮者と親類が御神酒(おみき)二升五合を奉納し、つまみ一品を出す。
一、参宮者には村中で一括して、祝儀を出し、御神酒はいっさい出さない。
この箇条書きのあとに、「倹約令が藩から出された場合は、別途相談して対応する」とある。このように村規定の内容はさまざまであったが、村規定には村人の生活のにおいが色濃く反映していた。