保科村における騒動や村出入りは、保科山の入会権(いりあいけん)と保科川の水利権とをめぐって起きた騒動に大別することができよう。入会権をめぐる騒動には、宝永(ほうえい)二年(一七〇五)四月の赤野田(あかんた)騒動、天保(てんぽう)十三年(一八四二)八月の保科村の直訴事件がある。保科川の水利権をめぐる騒動は幕府評定所に持ち込まれた貞享(じょうきょう)二年(一六八五)の須坂領綿内村との出入りである(第一七章綿内で詳述)。このほかに、明治三年(一八七〇)十一月、川西で起きた騒動に巻き込まれた松代騒動かあった。松代騒動では関崎の渡しで千曲川を渡った一揆(いっき)の一隊は、保科道を通って東川田村和田の民家を打ち壊(こわ)した。このとき一揆に加わり、乱暴狼藉した廉(かど)で保科村の百姓二人が一揆の鎮静後、藩役人に逮捕され村預けになった(「藩幣騒擾(はんぺいそうじょう)調査書」)。