宝永(ほうえい)二年四月の赤野田騒動は、赤野田山にあった川中島一七ヵ村の入会山が、赤野田に入植した百姓によって無断で開発され、高請地(たかうけち)になったことが原因で起きた。赤野田新田村は、慶安(けいあん)元年(一六四八)に牛島村の三人の百姓が移住し、三〇石余の耕地を開発したことに始まる。その後、保科村のものも追々入植し、元禄(げんろく)八年(一六九五)の耕地改めのときは、一〇一石余が高請地となった。この高請地のなかに入会地三二石余が関係村々に無断で開発されていた。これに怒った入会一七ヵ村は、「入会地の草木を燃料用・肥料用として、人の場合も、牛馬の場合も一日一背負いずつ利用する権利を確保する。そのために従来の入会地境の大成谷(おおなりや)・小成谷(こなりや)・仏師裏(ぶっしうら)付近を畑として開発させない」(「赤野田騒動鎮守神由来留」真島町 丸山四男八蔵)と赤野田に押し寄せ騒動となった。
この騒動で関係村々の肝煎(きもいり)(名主)は、村内取締り不行き届きの罪で牢舎となり、騒動の頭取をした真島村の覚之丞と町川田村肝煎は斬刑(ざんけい)に処せられた。また、事件の注進が遅れた保科村の山札見(入会鑑札の監視役)角右衛門は、所追放と建屋・持有地没収、赤野田新田村百姓一人が牢舎のうえ追放となった。このように赤野田騒動は大きな犠牲を出したが、入会村々の主張は認められ、赤野田新田村の農民が開いた畑三二石余、筆数二九六筆の高請地はつぶされ入会地となった。