天保の駕籠訴(かごそ)

948 ~ 949

天保十三年八月七日、江戸城から退出してきた松代藩主真田幸貫(ゆきつら)(当時老中)に、保科村の頭立総代助之丞・同利右衛門、小前総代幸蔵の三人が直訴(じきそ)した事件である。この駕籠訴も入会山の開発をめぐって、保科村と赤野田新田村とのあいだに起きた事件である。直訴状写(保科 中島袈裟信蔵)に、「赤野田新田が文政(ぶんせい)七年(一八二四)入会地のうち、堅山分の新田開発と高請を願いで、天保四年、小成谷・仏師裏・町ノ入・海沼の四ヵ所が開発高請地として藩から与えられた。この四ヵ所はすべて保科村の境界内の山野である。赤野田新田村に開発を許すなら、保科村はその分の年貢も納め、献金もするので保科村で開発することを藩に願い出た。ところが藩からはなんら返答がなく、このままでは強訴(ごうそ)にもなりかねないので、あえて直訴に及んだ」とある。

 直訴状にもあるが、保科村の耕地は砂れきまじりの痩(や)せ地で、土地の生産性は低かった。したがって耕土の培養には、廏堆肥(きゅうたいひ)を里村より多く必要とした。また、凶作の年には秣(まぐさ)をも食べて露命をつなぐという、天候に大きく左右される山村であった。こうした面で秣場は村にとっては大事な場所であった。足入れのよい小成谷・仏師裏・町ノ入・海沼(かいぬま)の四ヵ所は保科村の地つづきの秣場で、面積は二一町(約二一ヘクタール)余ある。秣場に不足する保科村は、秣不要の村々の山札を譲り受けて耕地の培養につとめてきた。赤野田新田村によって四ヵ所が開発高請されると村つづきの秣場を失うことになり、保科村にとっては死活問題であった。この事件では処分されたものは出なかった。翌天保十四年十一月に直訴者三人は、村役人らと連名で郡奉行所に請書(うけしょ)を出している。この請書によると赤野田新田村は開発高請願いを取り下げて従来どおりにし、そのかわり保科村は入会山冥加籾(みょうがもみ)五俵増で納め、さらに冥加金二〇両を納める。また、別に保科村から赤野田新田村へ補助として金一〇両と止宿料を与えることを約し、この直訴事件は落着した。