慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の森忠政の検地では、村高は一二八三石余、同九年松平忠輝は、保科村で草山三〇石余、札山三〇石を打ち出し(「信州四郡草山年貢帳」)、草山、山札年貢を納めさせた。松平忠昌領時代の元和(げんな)四年(一六一八)「信州川中島知行目録」に、村高一三五六石余、このうち五五石余が籾山年貢となっている。この両領主時代の草山高、山札高、籾山年貢高はいずれも北信四郡で最高となっている。この村高は以後、酒井氏・真田氏の松代藩でも踏襲され、保科村の本田高となった。その後、新田が開発され、寛文(かんぶん)四年(一六六四)の「信濃国川中島松城領高辻帳」に一二五石余の新田高がみえる。また、元禄(げんろく)十五年(一七〇二)の「信濃国郷帳」には、保科村の枝郷として赤野田(あかんた)新田村高三九石余、袖山新田村高一四石余が保科村高一三八一石余とは別に記された。天保(てんぽう)五年(一八三四)の「信濃国郷帳」には両新田村高は保科村に含められ、その総石高は一四七六石余と江戸期をとおし村高は最高となっている。『町村誌』によると明治七年(一八七四)の保科村の村高は川欠高六石余を含めて一〇六六石余で、天保期に比べ村高は四割ほど減少している。これは「村立ち山間にて前々より薄地の場所に御座候ところ、去る寛保戌(かんぽういぬ)年(一七四二)満水の節、耕地過半流失仕り、相残り候田畑も作土押し流し石砂入に罷(まか)りなり」(「赤野田山入会訴状」)とあるように、豪雨による耕地の流亡・荒廃が一因となっている。
保科村は村域の約八四パーセントは山林原野で占められている山村(明治七年田畑面積一三四町余、宅地面積一五町余、山林原野面積七八一町余『町村誌』)で、耕地は保科川・赤野田川の扇状地や、標高三五〇~七〇〇メートルの崖錐(がいすい)の周辺に分布している。耕地の八割を占める畑地は棚畑や傾斜畑で、豪雨は作土を洗い流し、沢川の暴水は耕地を押し流した。慶応(けいおう)四年(一八六八)の「家数等改帳」によると、保科村は戸数四七三戸、人口二一二九人であった。一軒当たり平均三反歩に満たない零細経営、そのうえ生産性の低い山地畑作農業のため「地方不相応に人別多勢の村である故、小百姓に至りては耕地・山林を所持しておらず、極窮の者どもは赤野田入会山より草・薪を刈り出して露命をつないでいる」(「赤野田山入会訴状」)というように農業だけでは暮らしが立たず、作間稼ぎとして林業・狩猟に従事するものも多かった。