安政(あんせい)五年(一八五八)の「諸商売諸職人冥加人別送帳」(保科 坂口忠造所蔵)には、水車二〇・屋根葺(ふき)五・杣(そま)職人一一・大工職人一〇・大工見習二・指物師(さしものし)五・畳刺(たたみさし)二・左官一・左官見習五・揚酒(あげざけ)売三・質屋一・酒造人二・馬喰(ばくろう)一・牛口労(うしくろう)三・鍛冶職二・材木師一二・同半人二・藍染(あいぞめ)一・焚炭焼二一であった。ほかに一五人に猟師鉄砲所持が認可されている。村の三割近くの家が農業のほかに他の職業にも従事し、杣職人・焚炭焼・材木師など林業に従事する家は四六軒あった。牛馬は農耕にとっても必要であったが、とりわけ山仕事においては、どびきや製品の薪炭・材木の輸送に馬は欠かせなかった。文化(ぶんか)十四年(一八一七)の「人詰御改牛馬御書上帳」(保科 坂口忠造所蔵)の馬六九匹や、明治七年(一八七四)の牡牛二・牝牛一二・牡馬二三・牝馬一〇三(『町村誌』)の数字は、林業依存度の高い村の姿を示しているといえよう。