保科村では江戸時代から保科川・赤野田川のつくる扇状地の立地条件を利用して水車が設置されていた。安政五年には三郎右衛門の「杵(きね)一三挺(ちょう)・石臼三柄」の水車をはじめ、二〇軒が水車業を営み、杵一五六挺、石臼四四柄、藁打ち杵七挺が稼働し、冥加銀五一一匁余を藩に納めている(「諸商売諸職人冥加人別送帳」)。傾斜地で、豊富な川水が水車の設置を容易にさせたからである。水車は動力電気が普及する昭和初期までつづき、昭和初期の水車は、傾斜地の多い保科村で二二、里村である川田村は三、綿内村は二であった(『若穂の民俗』)。