焚炭焼

952 ~ 952

川田宿の助郷は牛島村・東川田村・小出村・赤野田新田村・保科村の五力村であった。保科村は、松代藩に炭を納めることが課せられていたので、助郷人足は免除され、助馬だけを出した。安政五年の「冥加人別帳」によると、「はにう口・岩戸・立目・口ほそ」四ヵ所に窯(かま)を築いて製炭した引沢組の吉右衛門をはじめ、二一人の名がみえる。その後、炭焼き窯は「沢山」七ヵ所、「はにう」五ヵ所のほか「西ノ入」「仏師裏」「笹平(ささだいら)」「稗田(ひえだ)」など原料が得やすく、搬出の便利な日当たりのよい山窪(くぼ)や山裾に窯が築かれた。


写真7 保科最後の炭焼人となった星沢堅雄と炭焼き窯 (坂口鶴雄提供)