農産物

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明治七年(一八七四)の『町村誌』に菜種一二二石余(約二二立方メートル)、木綿一二〇貫(四五〇キログラム)、藍二二〇一貫(八・三トン)余、煙草(たばこ)六六四二連とある。江戸期も、たばこ・藍・菜種が主要な換金作物で、とくに、たばこは「ほしな煙草」として他産地物より高値で取り引きされていた。たばこは高井郡では保科・綿内をはじめ、須坂市の山手の村々で多く作付けされていた。綿内村の堀内家はこれらの村々から葉たばこを仕入れた。

 天明(てんめい)三年(一七八三)堀内家は四・一万余連の葉たばこを集荷し、代金四五六両一分を支出した。このときの平均仕入れ値は、一両につき八九・七五連の勘定である。このうち「赤野田」分は四三九四連、平均仕入れ値七三・八四連の勘定で五八両三分二朱三五七六文、「保科通り」分は七五八〇連、平均仕入れ値七八・八七連の勘定で九〇両三分と銭二二貫四五五文支出した(県史近世⑧)。

 「保科通り・赤野田」の保科村は堀内家の集荷量三割ほどを占め、仕入れ単価は平均を上回っている。この年の堀内家の平均仕入れ値は、幸高(こうだか)・米持(よなもち)・野辺(のべ)・小山(こやま)の村々の葉たばこは一〇三・九連とある。同年は、浅間山の大噴火によって全国的に大凶作になり、翌四年は大飢饉(ききん)となって物価は高騰(こうとう)した。これについて『須坂藩領内年代記』に「二月二十日市相場籾十八表、米五斗、上白米八合也。ふすま百文三升、大角豆(ささげ)六斗、たばこほしな上三十五斤、同しはり五十五斤」(『須高』四〇号)とある。このように保科産のたばこの値段は、須高地方のたばこ値の目安になるほどであった。