戌の満水

955 ~ 955

寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月一日の千曲川による大水害、通称戌(いぬ)の満水による保科村の被害は、「松代満水の記」に家七八軒のうち五一軒が流失、二七軒潰れ、流死者七人、御用漆木大小七〇○本流失とある。被害は保科川の谷口が広がる中流域左岸がはなはだしく、伝承でも町組では土蔵一棟が残っただけという。また、「松代領知水損之覚」によると、村高の八〇パーセントの耕地が被害を受け、二六パーセントが川欠(かわかけ)のため荒れ地と化した。このようすについて村役人は「耕地の過半は流失し、残った田畑も作土が流されて石砂が入ってしまった。追々起き返しできた場所でも同様で、年々生草・干草など度々刈り込み、荒肥(あらごえ)を施さないと耕土にならず、諸作物は実入りもできない」と述べている(「赤野田山入会訴状」)。