『上高井郡誌』に保科村の寺子屋は一〇塾みえるが、天保(てんぽう)十二年(一八四一)、町滝崎の医師小宮山立意の「止一堂」を除くと嘉永(かえい)年間(一八四八~五四)に成立したものが多い。師匠は村居住の医者・僧侶・神官などであるが、農業関係者も含まれている。これらの師匠はいずれも漢学の素養があり、文筆に堪能な人望の高い人たちである。自宅を開放して、読み書き・そろばんのほかに、郷土の祭事や習俗などのいわれを常識として教えた。明治五年(一八七二)の学制発布によって、小学校制度が発足したあとも、村人の実用教育の機関としてしばらく存続したが、小学校制度が漸次整備されると、寺子屋はその使命を終え消滅していった。
寺子屋の師匠には小泉春斎(しゅんさい)(須釜)、小宮山立意(りつい)・峰村又右衛門・堀義左衛門(町滝崎)、竹内新三郎・清水雅月(がげつ)(在家)、山岸三郎治・平林十郎治(久保)・竹内紀伊(引沢)、山岸吉之亟・山岸菊之亟(赤野田)らがいた。
小宮山立意は、文政(ぶんせい)四年(一八二一)一五歳で江戸に出て漢方医学を修業し、天保元年町滝崎において開業するかたわら、寺子屋「止一堂」を開いた。小学校が開校されることになって、止一堂の門は形のうえでは閉じられたが、師匠の仕事はのちまでつづき、九五歳の長寿を全うするまで、教えを求めるものが絶えなかったという。
門弟は遠く高井村までおよび、その数は五三〇人余に達した(『上高井郡誌』)。