明治五年(一八七二)学制が頒布されると、翌六年七月、第十五中学区「第二十二番小学」が広徳寺を仮校舎として開校し、同八月延命寺に移転され小学校教育が始められ、赤野田に支校が設けられた。「保科学校」の名称が使われてくるのは同十年である。就学率は明治十一年、五〇パーセントを若干上回る程度で、女子の就学率は低かった。同十九年にいたってもこの傾向はつづき、在籍児童男子一四九人に対し、女子は四〇人であった。
延命寺にあった保科小学校は明治二十年、現在地に二階建ての校舎が新築され、在籍児童数一五三人、四学級の新しい保科小学校時代を迎えた。同二十七年には保科尋常高等小学校と改名され、綿内にあった高等科が保科にも新設された。学校規模は尋常科四学級(一九六人)、高等科一学級(四七人)、高等補習科一学級(一〇人)であった。同三十五年に尋常科六学級(二五八人)、高等科三学級(九七人)そのうち一学級は女子となった。しかし、不就学児童も多く、就学率は男子九三パーセントに対し、女子は七七パーセントで、小学校に入らない児童が男子一六人、女子六四人もいた。また、尋常科を卒業して高等科に進学するものは少なく、これについて学校は「尋常科ヲ卒(お)ヘタルモノノ、高等科二入ル割合ハ常二半数二至ラズ。コトニ女子ハ男子ノ半数ニモ至ラザルハ非常二遺憾ナルコトトス」と当時の進学率の悪いことを嘆いている(『保科之教育百年』)。