大戦と保科村

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『悠久の平和を』によると太平洋戦争で保科村は軍人や、非戦闘員である開拓団員一六五人が、戦死あるいは自決した。日露戦争の戦死者は軍人六人、満州事変・日中戦争では軍人一四人が戦死をした。この戦争犠牲者の数からおして、太平洋戦争がいかに犠牲が大きかったか、また悲惨であったかを知ることができよう。昭和十一年(一九三六)から十四年にかけて、満州牡丹江(ぼたんこう)省(現黒竜江省)チャムス付近に信濃村が建設され、第五区には上下高井郡で五一戸入植した。この五区へ保科村からは四家族二一人が入植している。その後、六区へ二家族一三人、珠山開拓団へ二家族七人と開拓団学校長として大島善治が単身赴任した。同二十年八月九日のソ連参戦により、開拓地を放棄して退避した。保科村開拓団員四二人のうち、八月十三日鶏寧街における集団自決で一二人、戦闘や栄養失調・衰弱、チフス・赤痢の病気で二三人が亡くなった。帰国できたのは七人のみで、一人は帰国後まもなく病死した。家族全員で帰国できたのは一家族三人だけであった(『悠久の平和を』)。

 戦争が拡大するにしたがって、銃後の名のもとに自由が奪われていった。昭和十四年には大政翼賛会保科支部・保科愛国婦人会共催で「大政翼賛三国同盟村民大会」を開いて村民を決起させた。同十七年三月には、満州開拓少年移民として募集された満蒙開拓(まんもうかいたく)義勇兵五人が、日の丸に見送られて村をあとにした。 戦局が激しくなると、保科国民学校の生徒も食糧増産に駆り出された。清水寺のぼたん園は、生徒の手で掘り起こされ、大豆畑に変えられた。笹平の荒れ地も六〇アールほど生徒の手で開墾され、校庭はかぼちゃ・さつまいも畑と化した。また、米軍機の本土空襲が激しくなった同十九年、保科国民学校へも縁故疎開児童が転校してくるようになった。翌年五月には、東京府足立区立西新井国民学校の児童四〇人が清水寺に集団疎開してきた。