明治八年(一八七五)ごろの保科地区は、田五六町、畑一九五町余(『町村誌』)で、耕地の八割近くが畑で占められていた。畑は換金作物として主に「葉藍(あい)」「たばこ」が栽培され、上高井郡下では主要な産地であった。しかし、安いインド産の藍が輸入されると作付けが減り、明治三十年ごろにはほとんど栽培されなくなり、養蚕が勃興(ぼっこう)した。保科地区では、昭和初期ごろ養蚕の全盛時代を迎えた。昭和四年(一九二九)には桑園面積は二六四ヘクタール余、畑地の九割近くは桑畑となった。桑は深根性で、保水が悪く干ばつを受けやすい保科の畑地に適していた。それに第一次世界大戦の好景気で繭値がよかったからである。
昭和恐慌で繭価が大暴落すると、保科村でも価格の不安定な養蚕経営から、恐慌でも影響を受けなかったりんごなどの果樹園が増加した。桑園面積は終戦のころには昭和四年のほぼ半分となり、同三十三年には六〇ヘクタールを割り、平成にはいると桑園は消えた(「市統計書」)。