保科地区では、明治十年の西南戦争から太平洋戦争にかけて、一六五人が戦場に散った。とくに太平洋戦争では軍人九五人、軍属一三人、義勇軍七人、開拓団三〇人が犠牲になった(『悠久の平和を』)。保科英霊顕彰奉賛会は、戦後五〇年の節目として『悠久の平和を』を発刊した。戦争体験者として、聖戦の名のもとに国策に盲従した自戒と、平和の尊さを次代に語り継がねばという寄稿者の思いが紙面にあふれ出ている。
奉賛会は昭和六十年(一九八五)設立され、広徳寺東にある忠魂碑前で第一回の戦没者追悼慰霊祭をおこなった。この地区の慰霊祭は、それまでは遺族会主催でおこなわれ、地区全体のものにはならなかった。同五十四年に英霊顕彰奉賛会設立準備会が遺族会、戦友会、区長会、財産区の四者でもたれたが、具体化することなく六年の歳月が流れた。この歳月のなかで、戦争犠牲者に対する追悼の思いや、戦争の自戒、平和を願う区民の気持ちが、四者のセクトを乗り越え、自主的な区民参加の顕彰会が発会した。奉賛会の活動は、『悠久の平和を』の刊行へと昇華していった。
「戦没者の尊い犠牲を無にする事なく、再び戦争をくり返すことのないよう、若い次代に継ぎ、さらには平和国家の確立と、世界への貢献を誓いあう証」と、奉賛会長嶋津千和亀(ちわき)は巻頭で述べている。このことばは、保科区民の固い不戦の誓いであり、悠久の平和と繁栄を願う祈りといえよう。