明治維新当時は布施高田・布施五明・(五明本郷(ごみょうほんごう)・瀬原田組・柳沢新田組)・御幣川・会・上横田・下横田の六ヵ村であったが、明治五年(一八七二)、上・下の横田村は合併して横田村となった。
明治七年七月、長野県は大小区制を実施した。布施高田・御幣川は石川村・二ッ柳村と同じ第一四大区第七小区、布施五明は岡田村とともに第八小区、横田・会は原村・小森村と同一の第一六大区第二小区に属した。翌八年、御幣川・会・横田は二ッ柳村と合併して正和(しょうわ)村となったが、同十四年にふたたびもとの四ヵ村にもどった。
明治十一年七月、郡区町村編制法によって、近代的行政区画として郡が復活した。十二年一月には更級郡役所が塩崎村の欣浄寺(ごんじょうじ)に置かれ、大区役所が廃止された。七月には町村制が復活し、新しい戸長(こちょう)が任命された。
明治十七年長野県が連合町村会法を示達すると、地域は岡田村を入れた布施高田村ほか五ヵ村組合をつくった。