太平洋戦争後、新しい地方自治制度が実施され、さらに新学制の実施にともなう学校組合の設置を契機に川柳村・東福寺(とうふくじ)村との合併の動きが表面化して、昭和二十五年(一九五〇)七月一日に合併が実現した。さらに国の合併促進方針に沿って昭和二十九年七月に共和(きょうわ)村と、三十年四月には信里村と合併した。同三十二年八月には旧西寺尾(にしてらお)村の川西(かわにし)地区が松代町から分町して合併した。同三十四年五月には懸案の塩崎村との合併が実現した。この合併で人口が三万人をこえて篠ノ井市が実現した。
篠ノ井市の誕生
太平洋戦争後、新しい地方自治制度が実施され、さらに新学制の実施にともなう学校組合の設置を契機に川柳村・東福寺(とうふくじ)村との合併の動きが表面化して、昭和二十五年(一九五〇)七月一日に合併が実現した。さらに国の合併促進方針に沿って昭和二十九年七月に共和(きょうわ)村と、三十年四月には信里村と合併した。同三十二年八月には旧西寺尾(にしてらお)村の川西(かわにし)地区が松代町から分町して合併した。同三十四年五月には懸案の塩崎村との合併が実現した。この合併で人口が三万人をこえて篠ノ井市が実現した。