篠ノ井は、もともとは現在の塩崎上篠ノ井(かみしののい)付近の地名であった。千曲川の自然堤防と後背湿地帯の地域なので、びっしょりと濡れたさまをあらわす古語の「しのの・に」が語源であろうか。
ここには江戸時代北国(ほっこく)街道と北国西街道(善光寺街道)の分岐点の篠野井追分(しののいおいわけ)があった。文政十二年(一八二九)には茶店一〇、茶屋九、小商七、居酒屋三、旅宿二があった(「諸職人品分書上帳」)。
国鉄直江津(なおえつ)線(のちの信越本線)の敷設にあたり、駅はここに置かれる予定であった。しかし住民の了解が得られず、さらに第二の候補地の中津(なかつ)村原地籍の西方の地も住民の反対にあい、二転三転して現在地に決定された。
駅の位置は変更されたが、駅名は当時の更級郡の中心地であった篠野井(追分)の名をとった。駅開業にともない、追分地区をはじめ各地から移転してくるものが多くなり、駅周囲が大発展すると、篠ノ井といえば駅周辺のこととなり、本来の篠野井追分の地は旧篠ノ井とよばれるようになった。
大正三年(一九一四)、布施村が町制を施行するにあたり、この地が篠ノ井駅を中心に誕生し、今後も駅とともに発展していくことをもって町名とした。